作者の意図
ただ書きたかったから…とかじゃだめですか?
確かに、本編の登場人物は出てこないのですが、明らかに同一世界観上の、浅羽らの住む園原市付近での出来事になっています。
作者としては、作品中のメインキャラクターを外して、舞台やその他設定の裏側を垣間見せるためのサイドストーリーとして、全く別の話としては考えていないだろうと思います。
また、登場人物名を明示していないことは、「これは本編のあいつか、いや違うかも…話も直接的な関係はないけど裏で関係していそうな、でもじつは無関係だったり…」みたいな、読者にちょっとした違和感を与えるための工夫だと思います。この話の中で、榎本と名乗る男が出てきたならば本編との結びつきは強い物になると思いますが、完全に理解しようなどと考えなければあとは話を受け入れるだけです。また、それを明示しないことにより、ナンパ男は榎本かもしれないし、そうでない情報課スタッフの可能性、死体洗いをしたことのある民間人、またはただのWAC好きな男がどこからか得た噂をつなぎ合わせたり、さらには作中の人物が不思議な電波を受信して作り上げた話だったりといった可能性も考えられるわけです。これははっきり言って収まりが悪い、納得しにくい部分ではあります。でも、他の秋山瑞人作品でも見られるこういった違和感は楽しむべきものだと思います。(鉄のサムンバ然り、猫のオーロラ然り)
本題から外れますが、電撃から本を出している甲田学人という人の"夜魔"という本のあとがきでは、「これらの話のいずれか皆様の心の中に小さな違和感として残るなら、この作品のあり方としてそれ以上のことはありません。」と書いています。

そういった見方から、完全に関係があるという考えの元こじつけたり、逆に登場人物の名前等の直接的つながりが皆無であるという点から、イリヤ本編とは全く無関係な話と割り切ってしまうにはもったいない話だと思います。

一言で言えばこうです


考えるな。感じろ




死体を洗えの時代(時期)
時代設定もあまり出てませんが最近ノーベル文学賞とった…という下りから、大江健三郎がノーベル文学賞をとった、1994年より後と考えられます。
新しい話と考えた場合でも、3巻の緊張状態よりは前であると考えられるため、本編より未来の話でもないと考えられます。

次に本編とのつながりを考えるにあたって本編の時代も考えてみます。本編では、「携帯電話が普及していてもおかしくないけど、社会情勢がそれを許さない時代」というわけで、作品開始当時の2000年前後以降と考えられます。原付にイモビライザー、デジカメの写真から3Dグラフィックスを作れるソフトとかを考えると、もうちょっと未来っぽい部分もあるような。でも、イモビライザーは付けられなくもないと聞いたことがありますし、セキュリティ意識の高い仮想日本ということで携帯電話同様納得できますし、3Dグラフィックのほうも、結構値段はかかりそうですが無いわけでもないようで、現代(作品開始当時の2000年前後)と考えていいとおもいます。
Photosymth
リアル3Dマップ
一枚の写真から3Dの顔を再現するデモ
こういったソフトはここ数年で発展した感もあり、2000年の時点でどこまで出来て、それがいくらするのかもわかりませんが、おそらく、水前寺の使ったソフトは2007年現在出回っているソフトよりも高性能でしょう。(上手く使いこなせれば上のソフトで十分なのかもしれませんが)
このように考えると、死体を洗えは最大で5,6年前。もしこの事件に関わった2人のうち一人が椎名で、その後伊里野に関わるようになるにはぎりぎりのような気もするし、伊里野を見ていられず潰れるにはちょうどこのくらいといった長さでもあると思います。

というわけで、私はこれらの話の年代について、死体を洗え1994〜1996年、本編は2000年前後というあたりと考えています。


本編との関係
本編とはあまり関わりのない話にも見えますが、宇宙人に関わる話ではありますし、園原基地、自衛軍の内部という点で、全く無関係な話ではありません。また3巻P124に、花村が死体洗いのバイトの話をしています。作者がどちらを先に書いたはわかりませんが。
さらに、もしナンパ男(30ちょい前)が榎本だったり、静(しずか)、ちゅみのどちらかが椎名である可能性もあります。
また、ナンパ男の、「なんにもないやつにはそこまでできない」と、"命を懸けるて戦うには理由がいる"という意味のセリフがあります。誰にも知られずに戦って死んでいく伊里野の悲しい宿命に関する、作者自身の思いが現れた部分なのではないかと思います。

他にも、木村が幽霊の実在を示唆している部分もあります。
作品中での、ESPの冬、心霊の春?(公式な呼称無し)、UFOの夏の全てが伊里野につながっていて、伊里野もまた幽霊を見ています。(また、学校に潜入している時には地元で"白い幽霊"の噂が立ちます。)伊里野が幽霊を見るようになったのはエリカが死んで以降であるため、死体を洗えが榎本と椎名の過去の話であると考えた場合、この部分は伊里野が幽霊を見る以前の話となります。
ナンパ男、伊里野がそれぞれ別に幽霊を見た話をしていることになります。ただし、ナンパ男に関してはただの与太話である可能性も捨てきれません。

幽霊見たのは伊里野だけです、ナンパ男のほうはただの創作で事実無根です。なんていうことも可能ですが、伊里野以外にも軍隊内の誰かが見た(そして辞めていった)とか、もしくはやむをえない事情から一度だけ民間人に死体処理を依頼した時の経験から、など、幽霊を見た人間が他にもいたほうが話として収まりがよい気がします。
この幽霊を見た木村はその後、顔の口の部分を切り取ったり塗りつぶしたりといった奇行が記録されていますが、このような奇行はドラマCD(アニメ以降のものではなく、電撃が製作したアニメとは別キャストのほう)付属の短編でも描かれています。この奇行についても理解、説明は出来ませんが、これらの偏執的な行動は登場人物の受けた強いショックや、恐怖に取り付かれた人間の危うさなどを示していて、これも違和感による表現の一つですね。

最後に、死体洗いの送り迎えは浅羽が時折眼にする"大きくて白いバン"になります。
「ひぐらしのなく頃に」でも白いバンでしたね。無駄に目立つものの、色々な装備(装置)を積むのに役立つ大きさだからでしょうか。


大江健三郎 死者の奢り との関係
イリヤを読んだ影響で死者の奢りも読んだんですが、関連性を感じる場面も少しありました。

>戦争の前からこの水槽は掃除しないでそのままなんだ(死者の奢り より)
>水槽の中の防腐液も、旧軍の時代から一度も交換していない(死体を洗え より)

あとは死体の中に兵隊が混じっていて、その兵隊の人生に思いを馳せる部分があるくらいでしょうか。
道具出てきましたが結構違いますね。
>管理人は先端に黒いゴムの筒をかぶせた細い竹竿をかついでいた。
>「それは何に使うんです」と僕は竹竿を壁に丁寧に立てかけている管理人に訊ねた。
>「死体を手許に引きよせるのに使うんだ。もう何年もこれを使っている。これは良くできているんだ」(死者の奢り より)
>ロッドの先っぽにはワイヤーの輪っかがついてて、手元の操作で輪っかをぎゅっと縮めたりひろげたりできるようになってた(死体を洗え より)

死者の奢りのほうでは、ただの棒の先のゴム部分で、摩擦を利用して手繰り寄せるような道具として、死体を洗えのほうでは、輪に引っ掛けて引っ張れる道具になっています。

また、私の感想として、この「死者の奢り」というタイトルは、"医学部にいる人間にとっては、死体洗いなどというアルバイトをしている主人公は死体同然の存在価値しかない"という部分に由来しているのだと思います。そして、そのような存在がプライド(奢り)を持つことを否定するような扱いを学生や教授から受けたり、それでいて死体運びの仕事を30年続けてる老人(用務員さん?)はこの仕事に誇りを持っているようであったり…
その他女生徒のことや車椅子に乗った人とか、色々考える要素はある話でしたが、解説を読む限りではこの話はサルトルの実存主義を小説の形で判り易く表現したものであるらしいです。
実存主義は、ただ体があるだけ(=実在)では駄目で、精神的な自分(=実存)みたいな部分を重視する思想だったかな?くらいにしか認識しないので、サルトルがどんな思想を持ってたかなんて全くわかりません。で、wikipediaを見てみると、「それがあるところのものであり、あらぬところのものであらぬもの」がサルトルの考え方であるらしいです。
ここに書いてある事をイリヤに当てはめれば、伊里野の生きる意味、伊里野が見た幽霊、浅羽にとっての伊里野などが説明できる気もしますが、秋山は思想家じゃないのでただの気のせいです。